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turbo717's Activity 

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天神橋

 天神橋
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本日は、ばらの公園を抜け、中之島-東側最先端から西側をみた天神橋です。

ちょうど、大川が、堂島川と、土佐堀川の二つに切り裂かれる先端はちょうど、タイタニック号のへさきに立つ感覚と似ており、東側はひろい川面が広がります。西に向くと絵のように、新緑の柳がゆれる中之島の始まりと、この島を土台にして両方の川にまたぐ、天神橋のユニークな眺めを楽しむことができます。島の南北の両サイドの道もここで、合流し一つになります。犬の散歩もここで、Uターンです。

絵は中之島の東先端(剣先)から西方向を眺めた図です。
くねくねと枝が、曲がって面白い木が前面に立ちはだかっていますが、そこを透けてみえるのが天神橋です。
左手奥には、東横堀川の北端、葭屋橋(よしやばし)が見えています。

事典:中之島、天神橋
天神橋
橋長:210.7m 幅員:22m 形式:鋼アーチ、
天神橋は文禄3年(1594)に架けられたと伝えられます。当初は橋の名はなく新橋と呼ばれていましたが、天満天神社が管理することからしだいに天神橋と呼ばれるようになりました。天神橋の架設は上町台地と大坂の北部方面を結ぶという意味で大変重要であり、後に天満組となる現在の北区の一部の発展を約束するものでありました。明治18年7月初めに大洪水により淀川筋の橋は次々と流されたが、その直後に鉄橋化されることになり、天神橋には、ドイツからの輸入品で長大スパン66mのボーストリングトラスが用いられました。
 現在の天神橋は第1次都市計画事業によって完成したもので、低い軽快なアーチが中之島の剣先の風景によくマッチし、水都大阪の代表的な景観を形造っています。
 
松屋町筋にかかる橋です。絵で左の方向が、南の方向で、まっすぐ松屋町(幼少期は、「まっちゃまち」と発音したものです。おもちゃの問屋が軒を連ねます。地図を重ねて貼って、山のように高くしていく・・これがturbo717の”山”に興味をもつ原点となっています。)

天神祭
7月23日 ギャル神輿・・約200キロの神輿(みこし)を担ぎ、日本屈指の距離を誇る天神橋筋商店街周辺をかわいいミニの赤いハッピ姿でねり歩く姿をひと目見ようと、地元をはじめ、全国各地から大勢の人が訪れます。JR天満駅前と天満宮境内への宮入りが盛り上がります。
7月24日 宵宮祭 夜明け前、大阪天満宮の境内に組まれた櫓の上で催太鼓(もよおしだいこ)が響き渡る。続いて地車囃子(だんじりばやし)の一番鉦。大門が開かれ、いよいよ祭の始まりです。
7月25日 夏大祭 氏地・氏子の平安を祈る神事。完了の合図とともに、鳴りをひそめていた催太鼓も地車囃子も間髪入れず盛り上がる。境内には渡御列に加わる人々が続々と参集し、祭のエネルギーを蓄えていきます。



中之島
江戸期・・・全国から米を始め珍奇な物資が集まり、売買される活気に満ちた場所であった。モノの集まるところに、ヒト・チエ・情報が集まり、大阪商人達は新たなビジネス・スキームの編み出していきました。

明治期・・明治期の淀川では、外輪船の定期航路が大阪-宇治間を結んで客を運んだものの、鉄道網の進展に押され、衰退していった。梅田駅や難波駅が、関西各都市、さらに名古屋、東京と結ばれるに従い、大阪市域におけるキタとミナミのポテンシャルが高まり、大阪に「南北軸」のベクトルが生ました。

大正期・・大規模な洋風建築が中之島に集中。大阪控訴院(大正5年)、大阪市庁舎(大正10年)、中央公会堂(大正7年)、鴻池銀行中之島支店(大正8年)、朝日新聞社(大正15年)など。

昭和期・・文化・情報施設は島全体に分布し、「中之島の空気」をつくりました。御堂筋の完成(15年)と地下鉄の開通(12年)により、梅田-難波・天王寺は、ますます緊密に繋がり、交通量は増大した。中之島は、その流れと交差するかたちとなる。人々は、ここで東西に滞留し、夜の散策や文化的イベントを楽しんだ。
キタやミナミとは異なり、若い男女や子供、主婦などが、暗くなってからも安心して歩くことができる。公園、公会堂、学校、各種のクラブ、そして近代的なビジネス街というように、歩きながら街の光景の移り変わりを楽しめる。ここに「歩いて楽しい中之島」の原型が生まれました。
現在・・ばら園、新大阪市庁、新中央公会堂、など、すべてが新しく、きれいな雰囲気。水上バスによるクルーズもお勧めです。



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